
| あれは確か、鋭い日の光が眼に痛い夏の日のこと。 記憶が確かなら、私が人を辞めたのはその時だ。 もう何年も前になる。 くたびれた羅生門の前で萎びたように、私は、いや、私達は存在していた。 兄と妹と弟と、私。今思えば不吉な数だ。 あと少しで骸となる。それほどまでに、私達は飢えていた。 偉い人たちの話によれば、門の楼閣には人の死体が山ほどあるらしい。 冗談めかして妹が言っていた。 「人ってどんな味がするんだろう」 想像しただけで吐き気がした。 肉を食べないわけじゃないけど、いくら何でも人を食べる気なんてしない。 陰陽のどうとかって人も言ってたっけ。人を食べれば鬼になるって。 要はそれだけ忌むべきことなのだ、人を食べるということは。 「筋ばっかりで食えたもんじゃねえだろ」 兄が不機嫌そうに言う。普段は穏やかな人だというのに。 一方の私と弟は終始無言。 私の場合、元々喋らないだけ。 弟の方は深刻だ。病か何かにやられたみたいに上の空。 そんな弟を抱きしめながら待つ死。 それも悪くないかもしれない、と思い始めていた。 運命の夕暮れは、その日のうちにやってきた。 私も弟も動けず、人形よりもだらしなく動けずにいた。 そんな中、妹がふらりと立ち上がり、おぼつかない足取りのまま羅生門を登り始めた。 「・・・おい・・・」 妹よりも遅い足で、兄が追う。 さらに弟も、何かに突き動かされるようにして歩き始めた。 私も追おうとした。だけど飢えや渇きのお陰で動けない。 「・・・兄上・・・桜駆(おうか)・・・」 妹の名は、擦れて声にならなかった。 「行かないで」 それが私の人として最後の言葉だった。 ◆ やがて激しい打撃音が楼閣から響き、うつろになりかけた意識を呼び覚ました。 木を砕く音が鳴り、何かがドサっと私の目の前に落ちる。 私は息を呑み、それを見た。 死体、だった。 それだけなら、それだけの認識ならばよかったのに。 あろうことか、その死体は兄上だった。 「・・・・・・っ!」 体が半分ぐらい、焼き魚みたいに食い散らかされた痕が生々しい。 私は体を前に傾け、兄の体に覆いかぶさった。 正確には、それしか動けなかった。 まだ残るぬくもり。 一体、何が羅生門で起こっているのか。 もはや動けない私に知る術はない。 不意に、生臭い血のにおいが私の喉を刺激した。 兄の赤黒い血だった。 ごくり、と、生き残っていた唾が勝手に喉を鳴らす。 飲めば渇きが飢えるかもしれない。 考えがざわめき、私の胸を支配していく。 だが、兄の死に顔が私の正気を呼び覚ました。 いけない、と。 食べれば鬼になる、と。 妙な伝承が、私の正気を加速させていく。 だけどそれ以上に、欲望は膨れ上がっていった。 舌を伸ばし、兄の血が滴る地面へ近づける。 あとちょっと、あとちょっと。 ― あとちょっとで渇きが癒える・・・ そして楼閣で何が起こっているか知ることが出来る。 不意に顔の右側が笑みに染まっていくのを感じ、私の正気はそれを嫌悪した。 「・・・・・・!」 どこに力が余ってたのか、左手がそれを破壊した。右目を躊躇なく貫くことによって。不思議と痛みはなかった。と言うより、痛みを痛みとして感じられなかったのかもしれない。それほどまでに、私の感覚はくたびれていたのだろう。 そこから流れる血が、涙と混じって私の唇を伝う。 さらに、からからの喉が一瞬にして潤い、全身に活気が戻った。 これは夢だ、と思った。 先ほどまで死人同然だった私が立ち上がり、拳を握り締めることが出来ているのだから。 頬を伝い、血が滴る。それは兄の血と混ざり、姿をくらませた。 やがて炎が羅生門から吹き上がった。私の元へはらりと長くて白い布が舞い降りた。 「これは・・・」 私が妹の額に巻いた鉢巻。 幼い頃、貴族の子供によりつけられた傷を抑えるために作ったものだ。傷自体は浅かった。けど、妹の心は深く傷ついた。そう、むしろその傷を抑えるために作ってあげたものだ。 私はそれを巻き、右目を押さえつけた。 「兄上!」 ようやく本来の声が取り戻せた。 私は物言わぬ兄の体を抱きしめ、まだ生きている左目で泣いた。 「何なのよ、これ・・・!」 「鬼獣の仕業よ」 人の言葉が聞こえ、私は顔を上げた。 やがて見えたのは・・・陰陽なんとか、みたいな格好をした、私と同じぐらいの背の女。 衣は何よりも濃い黒で、隙間からは鮮紅が姿を見せる。おまけに背には大きな刀を背負って・・・。 適度に鋤かれた短い前髪と、1本にまとめられた長い後ろ髪も手伝って、当時としては奇妙な出で立ちだった。 だけど、それ以上に纏う雰囲気が、なんとなく人とは遠い存在のような気がした。 「驚かせてごめんね。とにかくあなたの兄は化け物に食べられたの。そしてあなたは、その化け物を打ち破る力を得た」 指をこすってパチンと鳴らす。 そうして伸びた人差し指は、楼閣を指差していた。 「あなたの兄を殺したものは、そこにいる」 私は左目を見開いた。 あそこには弟と妹がいる。 蘇った自分自身に戸惑っている暇はない。 私は久しぶりに全力で走り、楼閣を目指した。 その時はまだ、黒衣の女の正体を知ろうなど、微塵も思わなかった。 ◆ 楼閣に飛び込んだ瞬間、想像を超える状況が左眼に映った。 赤を基調とした服に身を包んだ両腕にかぎ爪をつけた弟・・・それだけならまだよかった。 弟が何かをにらみつけているのだ。 その何かが問題だった。 それは短い髪の少女。紛れもなく妹であった。 ただし、その身の半分が人とは程遠い形をしていた。 猛獣のようで、人のよう。よく言われる鬼って、こういうものなのだろう。 そう思わせられるほどの異形。 今思えば、その異形は虎に良く似ている。 「桜駆!」 「姉さん・・・!」 弟は跪きながら私の方を見ていた。 頬には鮮血が3本走っていた。 「姉殿ォ・・・兄殿、どうなったの・・・?」 妹は悲しげな声で私に訊ねた。 その口には赤黒い血が塗されていた。 「アンタ、まさか・・・!」 ぶわっ、と全身が冷たさを駆け巡った。 悪い予感が脳裏をよぎる。それはまもなく、妹の口から現実として謳われた。 「・・・兄殿、おいし・・・かった・・・!」 「ああ・・・・・・!」 怒りでもなんでもない、ただ悲しくなった。 飢えが妹をここまでさせてしまった、という現実に。 そしてその罪があやかしへの変貌だなんて。 今風に言えば情状酌量の余地ありじゃないの、だなんて思う。 だけど神様・・・いえ、世の理はそれを許さず、妹を化け物へと変えた。 「いまさら憂いても、魔欲を飲み干した以上、元には戻れないわ」 不意に黒衣の女が現れ、そんな言葉を私達に投げつけた。 「そしてあなたはそれを討つ力を持つ。皮肉なことかもしれないけど、ね」 「待てよ!」 弟が泣き叫んで、言葉をさえぎった。 「アイツ、泣いてるんだぜ・・・何も殺さなくても、心を取り戻せれば大丈夫じゃないのかよ!」 「・・・・・・」 黒衣の女は弟の方へ歩み寄った。 「ああなった以上、いつかはその心が消えてしまう」 そして手を握り、澄んだ瞳で見つめる。 「・・・あなたの気持ち、痛いほど分かるわ。私も同じ想いをしたから・・・」 その様子に見入っていた私が甘かった。 突然、妹の方から槍の様なものが飛んできた。 私は避けることも出来ず、胸でそれを受け止めていた。 貫通した槍は私に激しい痛みを残して壁に突き刺さった。 「くっ・・・!?」 「姉殿・・・逃げないと・・・食べちゃうよ・・・?」 「姉さん! やめろ・・・!」 駆け出し、妹の方へ向かおうとする弟。 しかし、女はそれを遮った。 「あなたの想いじゃ、妹さんに逆にやられてしまう。けど・・・!」 「うあっ!?」 足払いをかけられ、弟は床に思い切り叩きつけられた。 その間に、女は私のもとへ駆け寄り、開いた胸の傷に手をかざした。 それは光に包まれた。やさしい光だった。 「このままだったら死んでしまうけど、私と組めば・・・死ぬことは無いわ・・・」 「アンタ、なんなの、いったい・・・!」 なんて言っているうちに、妹の方から無数の槍が放たれる。 しかしそれは、薄紅の障壁が強固にも遮り、私たちの手前で弾かれた。 「その道の人は覇鬼(はき)って呼ぶわ。名前は牡丹。・・・こう見えても人が好きでね、人助けが覇鬼の生業。本当はあなたの弟さんと組みたかったけど・・・あなたを放っておけば、弟さん、ますます悲しがるだろうから・・・」 「・・・なに言ってるのよ・・・」 「あとで説明するわ。今は・・・そう、眼を覚まして、覇人(はびと)として・・・」 その言葉を言った口は、私の唇をめがけて迫ってきた。いくら世捨て人の私でも、それぐらいの意味は分かる。 ― 女同士で? 私は嫌悪し、牡丹と名乗る女を突き飛ばした。 激痛が胸から全身へ走るのを感じ、私は床に倒れた。 それを狙ったかのように、妹から無数の槍が放たれる。 恐らく間もなく死が訪れるだろう。 私は眼を瞑り、その瞬間を待った。 「姉さぁあああん!」 遠くで叫ぶ弟の声。それはあまりにも悲痛で、聞いているこっちが泣きそうだった。 そして、それも無駄に終わるに違いない。 だってほら、槍が私の体に・・・。 ・・・届・・・かない・・・? 「桜駆くん、あなたのお姉さんのことは私にまかせて・・・!」 そう言う牡丹の体に、槍が突き刺さっていた。 しかし彼女は平然としながら、私の方に顔を向け、腰を下ろした。 そして再び唇を近づける。 「・・・他の方法はないの?」 私は不機嫌そうに言った。 「様式美」 牡丹は冗談めかして言った。そして私の額に指を二本当て、眼を瞑った。 その間も槍は襲い掛かるが、先ほどの障壁が見事にそれを防いでいる。 「覇鬼、牡丹。この時を以って、この者の従鬼として存在します! ・・・えっと、名前、なんだっけ?」 「・・・雫」 私は躊躇いがちに答えた。 「・・・雫、これからヨロシクお願いできる?」 「いきなりそんなこと・・・」 ふと、私は妹と弟の方を見た。 泣きながらも私に牙を向ける妹。 涙を眼にためながら見つめる弟。 そしてさらに兄の骸が残影のごとく私の脳裏を駆け抜けた。 それらが重なり、私に決断を促した。 「やるしかないみたいね」 「下手したら数千年の付き合いになりかねないけど?」 「自分から言っておいて何言ってるのよ・・・」 私は牡丹の胸倉を掴み、その身を引き寄せ、額をぶつけ合わせた。 「何するの?」 牡丹は嬉々としながら訊ねた。 「様式美ってやつよ」 痛みを堪えながら答える。 「私に力を貸しなさい、牡丹」 「使いこなせる自信があるなら幾等でもどうぞ♪」 不意に額から熱が流れ込むのを感じる。 炎以上に熱いそれは、むしろ太陽と言ってもいいかもしれない。 それは私の中にある冷たい力を一気に沸騰させた。 「なっ・・・・・・!」 内側からバラバラになりそうな感覚。 私の体はそれに良く耐えた。 「私の力ってさ、男の身じゃ耐えられないのよね。かといって女の心じゃ耐えられない」 どことなくさびしい声だった。 「もう1人はウンザリ。だからお願い、耐えて、雫!」 「・・・・・・」 身勝手な想いだ。 それでも私は耐えてみせた。 「アンタの願いがなくても」 私は鼻で笑った。 そう、この黒衣の女が願わないとしても、この機会を逃すわけにはいかない。 これ以上、妹が不本意な涙を流さないように。 これ以上、弟が悲しまないように。 これ以上、兄の死と同じような哀しみにめぐり合わないために。 そしてそれらを生み出さないために。 「全ての哀を私の愛が受け止めてやる・・・!」 そう宣言したとき、全身に涼しげな風が駆け抜けた。 いや、それ以上に形がある・・・そう、水。 私の名前に相応しい感覚。 そしてそれに併せるように、私を包む白い服。武士のような、牡丹の黒衣のようなそれは、私によく馴染んだ。 やがて自分の長い髪が目の前で一瞬だけ踊る。 薄い氷のような色をしていた。 「・・・・・・もう人間じゃないわね」 私は苦笑しながら腕を伸ばし、手を広げた。 「いいわよ、雫。思い描いて、あなたの力を! それが武器としてその手に宿る!」 「・・・・・・!」 次の瞬間、水が私の掌で暴れ始めた。 それは棒に成り、さらに妹の方を向いた先端に刃物が宿った。 刃は・・・半月のような、そう、斧。 柄の長い斧だ。 それが完全な形を得たとき、私は駆け出していた。 異形と化した妹のもとへ。 妹は満面の笑みで刃を迎え入れてくれた。 私は無言でそれを斬り裂いた。 遠くで弟が泣き叫ぶ声が聞こえた。 それを慰める覇鬼の言葉が届いた。 「・・・ああなってしまっては、もうああするしか・・・」 「本当に無いのかよ・・・そんなはずは無い・・・絶対、絶対に見つけてやる・・・!」 そう叫び、弟は駆け出し、楼閣から飛び出した。 擦れ違い様に、私に呪詛を残して。 「・・・俺は姉さんの早まった決断を許さない・・・!」 「・・・・・・」 返す言葉も、止める事もなく、私は弟の走り出した道を見送った。 死んでいるはずの右眼が、この時、確かに涙を流した。 ◆ ◆ ◆ それから何年経ったことだろう。 私は私なりに、自分の道を歩んでいた。 悲しみが広がるその前に、鬼獣と化した人々を討つ。 牡丹は言う。それが私たちのやり方、と。 「なにシケたツラしてんの?」 「・・・」 根城にした無人の・・・正確には元無人の神社に訪れた久しぶりの平穏。 こう言う時は決まって、牡丹は姿を消して桜駆を探しに行く。 だけど今日は珍しく私の半径5メートル内にいる。 強いて言えば、鳥居の足の部分の反対側。 「兄上が死んだときのこと、思い出してたわ」 「・・・私と出遭った時でもあるわね」 「そして妹を失った日」 「プラス桜駆くんがグレた日ね」 「グレたのは私の方よ」 私は適当な声で言い放って、鳥居に軽く蹴りを入れた。 「あのまま道を突っ走ってくれれば、顔も合わせずに済むんだろうけど」 言いながら、眼下に広がる街を見渡した。 この神社の周囲にある街。そこが私と牡丹の守るべき地域。 ま、全国規模で展開する鬼獣が相手なんだから、自然とキャパシティに合わせてエリアが生まれたって感じだけど。 この地域は広さよりも発生率がひどい。 特に・・・近くの高校ってヤツは。 「私たち、ここから先に進めるかしらね」 おもむろに私は呟いた。 牡丹からの言葉は微塵もなかった。 戻る |